僕は昔、走高跳びの選手でした。走高跳びという競技は、失敗が2回まで許されます。でも3回連続で失敗したら、次の高さに挑戦することは出来ず、競技は終了となります。野球もスリーアウトでチェンジ、空振りも3回でアウトになります。 仏の顔も3度まで、と言いますし3という数字は、何かしら僕らの人生において大切な数字のように思えてきます。失敗を犯してしまった人、犯罪を犯してしまった人(犯罪の内容にもよりますが)にもセカンドチャンスは与えるべきだとは思います。ただサードチャンスという言葉に馴染みがあまりなく、スリーアウトという言葉がしっくりくる感覚があることから、人はそれほど大きな失敗に対して、寛容ではないことが何となく理解できます。
そこで登場していただきたいのは、羽賀研二です。つい最近、彼は逮捕されました。 よく知らなかったのですが、これで3度目の逮捕のようです。 最初の逮捕は、未公開株を売りつけて債務から逃れようとしたことに対する容疑、だそうです。2回目は、偽装離婚による財産隠しの容疑で逮捕、3回目の今回は不動産の虚偽登記をしたなどして、強制執行妨害目的財産譲渡仮装のなどの疑いでの逮捕、と報道されています。 個人的には、羽賀研二に興味があるわけではありません。また彼のことは正直、ほとんど知りません。それなのに、なぜ今回彼のことをちょっと書いてみようかな、と思ったきっかけは「人は変われるのか、否か」という点にとても興味があるからです。
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一般的には、人はいくつになっても変われる生き物である、と習います。 そして僕も若い頃は、性善説というものを信じており、そういう考え方をしておりました。 しかし歳を重ねて、世の中には救いようのない悪者がいるのだ、という考え方に変わりました。個人的な経験の蓄積により、そのように変化せざるを得なくなったわけです。
そこで先述した、3という数字が僕の中で大きな指針のようになっています。 羽賀研二は3回目の逮捕です。逮捕の容疑はそれぞれ異なりますが、いずれも反社会勢力の関与があるようです。 実刑を受けて、シャバに戻ってきても、その間ずっと反社との繋がりは途切れてなかったことになります。 だから、僕自身の考えでは、羽賀研二はもう社会的にはアウトな人間で、一般社会では生きていけない人間になってしまったように思います。
少し古いデータになりますが、2021年の法務省の犯罪白書によると、刑法犯で検挙された人のうち、再犯者の割合を示す「再犯者率」は49.1パーセントなのだそうです。つまりは2人に1人は、また犯罪を犯してしまうということになります。犯罪にも殺人や強盗、傷害等があり、それぞれの再犯率も知ることができますが、それはここでは割愛したいと思います。ちょっとショッキングな数字がそこには書かれているからです。 一度犯罪に手を染めると、そこから立ち直ることがいかに難しいか、ということだけは分かります。未成年は刑務所には入れないはずなので、上記の数字は成人以上の人間、ということになります。なので特に人格形成が一通り済んでしまった大人が、新たな自分を自ら作り出す、変わる、ということがかなり難しいとする考え方が間違っていないことは事実なのでしょう。
ただスリーアウトになった人間で、真人間に戻れたような人はいるのでしょうか・・・。
前科がいくつもあり、その後飲食店経営者として真人間になった、聖職者になった、などという話を以前に聞いたような気がします。 興味が湧いたので一応調べてみましたが、よくよく考えたら、わざわざ犯罪を犯したことを世間に公表する人などはいません。ですが元前科者から、社長になるなど幾つかの好例はあるようです。ただそれも匿名であり、その方々が何アウトからの社会復帰となったのか、あまり具体的なところは触れていないので、結局わからず終いです。ちなみに最多の前科は89犯で、次は76犯のようです。この数字だけを見ると、少しでも性善説を信じていた自分が虚しくなります・・・。
というわけで羽賀研二を今後テレビで見ることはほぼないと思います。
ただ、どこかでこういう無名ではない、有名な人が前例を覆して真人間になって欲しいとはこっそり思います。おそらく羽賀研二にその役を期待するには、もう無理だと思います。 何れにしても羽賀研二、スリーアウトです。残りの人生をかけて、きっちり罪を償って欲しいですね。
でもあんな容姿が整っていて、女性にモテモテで、ちょっと真面目に生きていたら人生は安泰だったはずなのに、人ってわからないものですね・・・。 道徳心やちゃんとした情緒教育を受けていれば、あぁいう人間にならずに済むのでしょうか・・・。もはやそれすら僕には分かりません。
賢い人の意見を聞いてみたいところです。
世の中には逮捕もされず、事件にもされていない人や犯罪行為がまだいくつもあるのだと思います。 罪を憎んで人を憎まず、などとは言いますが、それは健全な社会があってこそ言える言葉に思えます。 「人は変われるのだ」とおっさんになった僕にはもう言えない言葉です。特に成人を過ぎて脳みそが固まった人にはとても難しい、とすら思います。 それは残念ながら、自分も含めてです。変わりたい、とは思っていますがドラスティックに変化しようとするならば、多大な犠牲と努力のようなものが強いられると思います。 そしてそれが自分には出来る、と明言できるほどの自信が僕にはありません。 ただ、次世代にはそんなことを言わせたくない自分もいますので、もしかしたら僕らの世代にもまだできることが少しくらいはあるのかもしれません。それが何であるのかすら分かりませんが、まずは自分との約束を守れるような大人でいる、そんな些細なことのような気はしています。
そんなこんなを思う、今回の逮捕劇でした。ちょっと真面目なことばかり最近書いてる気がして疲れたので、もうちょいゆるいことを次回は書きたいと思います。
では皆様も良い1日を。