もうここ何年も思ってきたことですが、そのことについて書いてみようと思います。
僕はテレビを持っていません。そして新聞も購買しておりません。
もちろん数年前は、どちらも生活の中にありましたが、今は無くなりました。
それで別段困ることもないので、いつしかこのようになっています。
ニュースは携帯で充分知ることが出来ますし、エンタメに関してもYouTubeやその他ネット番組で事足ります。
テレビが無くて、たまーに困ってしまうのは、スポーツ中継がTVライブでしか見れない場合のみです。でもそれはレアケースですし、スポーツのテストマッチ等はスポーツバーでやってくれるところもあるので、困ったらそこに行くか友達に頼るかで乗り切っています。
どうしてテレビや新聞を読まなくなったのか、それは単純に偏向報道みたいなのが見るに耐えなくなったのと、単純に面白い、見たいと思える番組が少なくなってきたからな気がします。
僕は昭和生まれなので、一応平成、令和含め3つの時代を見てきたことになります。
どの時代もそれぞれの良さがあり、どの時代が良くてどの時代が悪かったか、みたいなことは一概には言えません。
それに今がサイコーだ、と思いたい性分なので昔はこうだった、ああだったというのはなるべく口にはしないように心がけてはいます。
まぁでもやっぱり、完全にそれを遵守するのは難しくして「最近の若いヤツは・・・」的トピックを口走ることが無いとは言い切れません。
そんな昭和世代のこんなおっさんが言うのはおかしな話ではあるのですが、平成生まれの若い方々にはどんどんおっさん/おばさん世代を突つきつつ、良い時代をともに作れたら良いなぁと願っています。
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医療ダイエットで痩せ体質をつくる【ファイヤークリニック】で、前置きが長くなりましたが本題に入りたいと思います。
世の中がガバナンスとかコンプライアンス、ポリティカルコレクトネスなどという横文字が定着するにしたがって、少しずつなんだか息苦しいと言いますか、生きづらい世の中になりつつあるな、と感じるようになりました・・・。
例えば、差別と区別がいつの間にか同義語になってしまったのか?と思うこともありますし、何が正しくて何が間違っているのか、報道の仕方によっては余計に分かりづらいケースが増えてきたのではないでしょうか・・・。
また社会だけでなく、自分の身近な会社で起きた問題であっても、それを問題化せずにスルーすることを是とするような風潮を最近特に感じます。本当に問題を解決する気があるんだろうか?このような疑問を感じたことがある人は、少なくないはずです。
少しだけ踏み込んだことを書くと、正しいことを正しい、間違ったことを間違いだと言えない場面が増えてきました。
これは政治や一般社会、会社や学校でも起きている問題でしょう。
もちろんなんでもかんでも、言えば良いということではないと思います。そこにはマナーや敬意やルールもあることでしょう。
ただ、話し合いが出来る環境にあるのに、対話すらしなかったり、この意見以外は意見にあらずのような事例も多くあって、言論統制をされているかのような空気を感じるのはちょっとマズいのではないか、と勝手に憂慮しています。
お互いが思う「正義」が異なるのなら、それを話し合う道理はあって良いと思うのですが、そんなことすらなかなか実現しづらい風潮をここ数年感じるようになりました。
例えば某市で問題になっている外国人問題などは、治安を乱す反社会的行為があるのでそこを突いているのにいつの間にか人権問題にすり替えられたりします。 間違ったことを正すために、間違っている、と提言したいだけなのにそれが歪められた報道をされたりです。 ネットなどでもそうした問題を取り扱っている個人の方がたくさんいるのですが、そういうものの動画には広告はついていません。 犯罪についての言及であり、特定人種や民族を貶めるようなことは言ってないように思えるのですが、そうではないと運営が判断したのでしょう。臭いものには蓋をするのが得策だと考えたのでしょうか。
政治も某国に関しての言及が少なく、領海領空侵犯があったとしても「遺憾砲」にとどまるだけです。[毒まんじゅう]を食ったのだな、とつい推測してしまうような政治家がたくさんいます。
もっと身近な一般の会社などは、これだけガチガチなコンプラがあるにも関わらず、おかしな社風や独自のルール、パワハラ等が一向に改善されず、問題視して発言をした者が解雇されたり、左遷される事例もよく見聞きします。
どうしてこんなことになったのでしょう?時代なのでしょうか? 個人的には、「利益主義」のようなものが「民主主義」を凌駕した結果で、政界や経済界から少しずつそれが一般社会・一般生活へ浸透してきたから、だと思っています。 この意見が正しいかどうかは分かりませんが、全く当てずっぽうでも無い気はしています。これについては、いつかもう少ししっかり書いてみたいテーマですが、長くなりそうなので今日はこのへんに止めたいと思います。
日本人は問題が起きても、事を荒げたり、物事を穏便に解決する方法をこれまで選択してきました。それはとても美しい行為と言いますか、所作かもしれません。 問題意識を持った人が「背中で語り」、周囲に知らしめるようなことが有効な場合もあるでしょう。
でも同じように問題に対して、言葉によって強く発信し、時には怒りの感情を見せることが許されるケースだってあるのではないでしょうか。ここ数年、皆が皆、良い人になり過ぎてしまった弊害みたいなものが一気に噴出したような感じがしてなりません。
というわけで僕は自分の周りの小さな世界ではありますが、その世界の中では「悪役」になりきろうと思います。いろんなことに首を突っ込めるほど、オツムが賢くはないのでそのことを忘れないようにしつつ、やはりおかしなことには「おかしいだろ!」とちゃんと言えるオトナでいたいです。
僕がガキんちょだった頃、若かった頃には、常に怖いオトナたちがいて間違ったことをした時には、常にガツンと言われました。嫌われると自覚しながらも、ちゃんと人の道と言いますか、道理を説いてくれました。僕もそういう役目を果たす年齢になったのだと思います。
なので今後は小さな勇気、みたいなものを振り絞り、また己の小さな脳みそをフル稼動してちゃんとした言葉を発するオトナでいようと改めて決意した次第です。
ちょっと重いトピックになりましたが、個人的には少しだけ、勇気を問われるような事例が幾つか重なったので、いつの間にかこんなことを書くことにつながりました。 男は度胸、女は愛嬌、オカマは最強?らしいので、おっさんにも度胸があるところや、勇気を発揮するところをたまには見せなくちゃ、と思います。あくまで自分の周囲数メートルの小さな世界のハナシではあるのですが。
今日もグダグダな日記になりましたが、ここまで読んでくれた方はありがとうございます。 今日という日があなたにとって素晴らしいものとなりますように!