超私的日記

道具が教えてくれること。

僕は元アスリートだったおっさんです。それとファッションが好きというのもあって、自分の家にはたくさんの靴があります。トレーニング用、お出かけ用、古い靴、イマドキの靴とそれぞれです。

今の靴(スニーカー)についてちょっと加筆すると、ソールにカーボンファイバーが内蔵されていたり、運動力学に基づいた設計がされています。俗に言う「ハイテクシューズ」(以下ハイテク)です。

でも先日、ふと昔の靴を履いてみたらどんな感覚になるんだろ?と思い、しばらく履いていなかったものを引っ張り出してみました。

その靴はソールも薄く、履き続けると徐々にクッションが失われるタイプのものです。アッパーも足にフィットするような細かいパターンも縫合もされていません。簡素な作りの靴で、これがいわゆる「ローテクシューズ」(以下ローテク)です。

久々のローテクは、小さな驚きを僕に与えてくれました。

まず感じたのは、接地の際の衝撃がハイテクよりも緩和されないことです。ただでさえ弾まない老体なので、地面から貰える反発をうまくキャッチできません。

例えて言うなら、車のショックアブゾーバーを抜いて、そこにただ同じ長さの棒を突っ込んだようなものです(分かりにくい例えだったらスミマセン)。ともかく自分の体が突然80歳にすり替わったような感覚でした。

ただ僕はこのローテクを履いたトレーニングを今後も取り入れることにしました。

毎回履くわけにはいきませんが、タイミングを選ぶと有効になりそうな気がしたのです。

体というのは脳みそ以上に賢い部分があって、ローテクを履くことによってハイテクでは見過ごされていた体の使い方をあぶり出してくれるのです。

例えばローテクを履いた時にふくらはぎが張る場合には、体軸が少しズレていたり、重心がブレていたりすることがあります。その結果を筋肉の張りという形で教えてくれるのです。

靴の機能で隠されて誤魔化せていたことを教えてくれている、とも言えます。事実、ローテクからハイテクに戻した時に、動きや体のポジションなどの修正を試みたところ、その日はとても良いトレーニングに繋がりました。

こんな経験が幾つかあるので、僕にとって靴は単なるトレーニング上の道具ではなく、自分の足や体を守ってくれる大切なパートナーであり、正しい体の使い方を教えてくれるコーチでもあるのです。スポーツの経験があったからこそ、僕は自分の道具の重要性や大切さ、みたいなものに早く気づけていたように思います。今考えてもそれは幸運なことだったのかもしれません。

話は少し逸れますが、僕は小売業に属しておりましたので、商品を組み立てたり店を円滑に運営するために多くの道具使用が求められていました。

商品が入ったダンボールを開梱するためには、カッターが必要ですし、それを組み立てる電動ドリル、通路幅や商品サイズを測る為のメジャー、業務によって使い分けるペン、メモ帳、ノート、ワイヤレスマウス・・・この他にも数百のアイテムを常に用意しておりました。

最低限の道具は会社から支給されていたり、準備されているのですが、仕事を覚えるうちに全て自前で揃えていくようになりました。

支給されるものは、どうにも使い勝手のあまり良くないものが多く、高価な道具は共有物となっています。仕事の効率や道具に対するストレスを考えると、自前で揃えた方が良いのは明白です。道具がひとつずつ揃う度に、お金は消えていきますが、仕事の効率や成果の向上からそんなことは全く気にならなくなりました。

増えていく道具のひとつひとつに愛着が湧いてきます。ペン一本に対しても、コイツらに僕は飯を食わせてもらってるのだな、と思う様になりました。

今でも仕事や遊びで使う道具には、ちょっとだけ拘ってしまいます。ただそれを使いこなすのにある程度の技量や技術が求められるものに関しては、いきなり高価なものは買わない様にしています。使いこなせない道具とはパートナーシップが成立しないからです。持っているだけでステイタスになる様な高価な道具もありますが、使いこなせなければ愛着が持てないし、ヘタクソなのにモノだけ良いのはなんかカッコ悪い気がします。

自分の元に来てくれた道具には、やっぱり愛着を持ちたいですし、愛着を持って使用すれば良い仕事、良い成果、良い思い出が作れるのではないか、そんな風に思っています。

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と前置きが長くなってしまいましたが、冒頭のボロボロな写真について書きたいと思います。

この靴の持ち主は、ちょっと前まで高校生だった少年のものです。彼の父親がFacebookに載せた一枚なのですが、許可を貰って今でも僕の携帯の中に保存しています。蛇足ながら彼は僕の大学の後輩なのですが、自分の人生の中で会えて良かった人物の最上位にいるひとりでもあります。もひとつちなみに彼の母親も知っていますが、彼女も大学の後輩でした。折紙付の性格の良さだったことを加えておきます。そして2人とも陸上選手で全国大会の優勝経験を持っています。

この時の彼のFacebookの投稿は、「息子から靴が欲しいと言われた。まさか靴がこんな状態になっているとは知らなかった。毎日顔を合わせているから気がつかなかったけど、いろんな面で息子へのケアが足りていなかったのかもしれない・・・」みたいな内容の投稿でした。

この靴の持ち主だった少年は、陸上競技選手で走り幅跳びを専門にしています。おそらくこの靴は父親からのプレゼントでずっと愛着を持って使用し続けていたのでしょう。

そして彼の父親も物や道具を大切にする人でした。だから、新しい靴が欲しい、となかなか言い出せなかったのだと思います。

補足すると、彼の父親は教員をしており、母親も仕事をしています。家庭が貧乏だから、それを言い出せなかったわけではありません。また僕は父子2人に会ったことがあるので知っていますが、父親が厳格だからそう言えなかった、というのも違います。もしもそうであるのなら母親にも言えたはずです。

普通家庭の父子・母子以上に関係性が近く、特に息子が父親に対して深い尊敬の念を抱いていることは、彼らの会話からすぐに感じ取れるものでした(母親にも同様ですが)。

そもそも見た目を気にする今時の高校生が、こんな状態になるまで靴を履き続けていることが僕には衝撃でした。きっと友人から数々のツッコミを受けたでしょうし、この靴を履いてる人を誰もカッコ良いとは思わないでしょう。

なぜこんなになるまで靴を履き続けたのか。答えは明白です。この靴に愛着を持っていたから。父親がくれた靴を大切にしたかったから。これ以外の答えはないと思います。

そう言い切れる理由がもう一つあります。

この写真から1年後、少年はインターハイで大会記録に迫る素晴らしいジャンプを見せて優勝しました。国体でも優勝し、日本陸連が定めるジュニアの優秀選手のみ対象のダイヤモンドアスリートというものに認定されました。親子共にインターハイ・国体の優勝者となるケースは稀だったので、大きな話題にもなりました。

こんな才能に溢れてルックスにも恵まれた少年が、学校の内外で注目を浴びない訳がないのです。

そんな人間がここまでボロボロの靴を履き続けた理由は、もう明白でしょう。

この写真を見てから、僕は物を買う時に少し考えるようになりました。

「僕はコイツをちゃんと最後まで愛着を持って使用できるだろうか」と。

一時期断捨離という言葉が流行り、【捨てるが正義】みたいなムーヴメントがありました。

片付けとは、物を捨てることだと思いますし、物を手放したり捨てることで、良い流れが生まれることも事実なような気がします。

でも一番の正義は、最後の最後まで物や道具を使い切ることでないのか、と思うようになりました。

そういう面では、僕は資本主義社会におけるあまり良い住民ではないのかもしれません。

でもそれで良いのかな、と今は思っています。

自分に集まってきてくれた物をこれからも愛着を持って、大切にしようーこれがこの写真を僕が今も保管している理由です。

僕はここまで靴を履くことはありませんが(だって怪我してしまうので)、彼の示した愛着のわずかでも持てたらいいな、と思います。

また長い話になってしまいましたが、ちゃんと書けてスッキリしました。

本当にマ⚪️ターベーション、自己満日記の権化みたいな投稿になりましたが、読んでくださった方に感謝を。

良い週末をお過ごしください。

ありがとうございました。

応援・ファンレターをお待ちしております!ありがとうございます

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