超私的日記

祖父に会いに行ってきた。

私の祖父母たちは、色んな意味でとても個性が強い人の集まりだった。そんなこともあって彼らとのやり取りを今も鮮明に覚えている。

その中にあって、父方の祖父にだけ記憶がほとんどない。

それは、私が幼い頃に亡くなってしまったからだ。                 

だけどいつも笑っていて優しい人だった。彼が僕を抱っこしながら、穏やかに微笑んでくれた記憶が残っている。

大人になってから、父方の祖父が私の本当のおじいちゃんではないことを知った。

私の父親が生まれる前、本当の祖父はすでに亡くなっていたらしい。

それを聞いても特別な感情は湧いてこなかった。血縁関係が無くても、ずっと祖父だと思っていた人の記憶がある。

だから本当の祖父がどういう人で、どんな人生を送った人なのか父に聞くこともなかったし、正直あまり興味も無かった。

10年前くらいに家族の会話の中で、実の祖父に関する話題がいきなり上がった。

その時に初めて、彼が軍人であり硫黄島で帰らぬ人となったことを知った。

それを聞いてから私は実の祖父に興味を抱くようになった。

私は8月15日、可能であれば毎年、靖國に行くようにしている。それは実の祖父が硫黄島で亡くなったと知る随分前からである。

だが私の父は靖國に一度も訪れたことはない。彼の実の父親がそこに眠っているのに、である。理解しかねる気持ちであったが、戦後に生きた世代は、自虐史観が刷り込まれている。80過ぎた人間の国家観や歴史観が変わることはもうないだろう、と思っていた。

そんな父が昨年突然、硫黄島へ慰霊に行く、と言い出した。

僕も全く知らなかったのだが、厚生労働省が毎年、戦没者慰霊事業として戦争遺族を対象に内外の戦地だった場所でそうした活動をしているのだ。その事業には、硫黄島での慰霊も含まれている。

ありがたいことに孫である僕にもそれに参加する資格があるという。

ただ残念ながら、僕にはどうしても外せない予定があり、昨年は参加出来なかった。

そして今年、漸く参加できることになったのだ。

正直、祖父の慰霊は勿論だが、それよりも硫黄島に行ってみたい、自分の目であの地に立ちたい、という気持ちの方が強かった。

なぜなら硫黄島は誰でも行ける場所ではないからである。島全体が自衛隊基地となっており、訪れることが出来るのは、大雑把に自衛隊・米軍関係者、政府関係者、遺族関係者に限られている。

硫黄島へと旅立つ前日、遺族が集まり簡単なブリーフィングを行い、翌日羽田空港から旅立つことになった。

前日、そして当日の機内でも、多くの場所で写真撮影は禁止されており、SNS等への投稿は遠慮するよう繰り返し説明をされた。

ただ、誰もが携帯を持つ時代であるし、やはり遺族側としても自分の先祖が眠る場所の写真は残しておきたい。機内から硫黄島全土が眼下に広がった時、多くの人が携帯を向けていた。

事前に止めるよう通達を受けていた行動を、ほとんどが無視しているのである。

だが、機内でそれを注意された者は一人もいなかった。島上空を旋回していた時、CAの方々は、乗客に視線すら向けていなかった。努めてそうしていたのは明白だった。

正直に書くと、僕も多くの写真を撮影した。その数は10や20の数ではないことを告白しないといけない。

ただ、やはり上空や島内で写した全ての写真はここでアップロードすべきではない気がするので、やめておく。                                   

それはこの事業が末長く、続いて欲しいからだ。

硫黄島全体が自衛隊の軍事基地である以上、機密上の制約や秘匿すべき情報は必ずある。

なのでなんでもかんでも写真をアップロードするということは、ちょっと大げさにいうと国益に反するようなことに繋がりかねない、ということになる。

過去、硫黄島を訪れた人がブログやその他に写真を投稿していたりもするのだが、今もそれは規制されていない。当然政府からチェックはされているのだろうが、恐らく遺族ということで黙認されているのだ。その意味をきっちり理解しておく必要がある。

と前置きは長くなったが、個人的な感想等を以下、述べていこうと思う。

島に上陸してからは、遺族側は各班に別れてバスに乗り込み行動した。

遺族によって最期となった場所は異なっているので、自分の先祖が眠る場所でそれぞれが祈りを捧げる為である。

ちなみに私の祖父は、擂鉢山(すりばちやま)の下で最期を遂げたらしい。

それぞれが周るコースが事前に設定されていたようだが、予定よりも時間が余った為に、急遽追加で幾つかの場所を案内してもらえることになり、多くの場所を目に焼き付けることができた。

バスにはドライバーの他、場所ごとの説明をしてくれる自衛官、厚労省から派遣された職員、そして遺族が乗車していた。

私たちを担当してくれた自衛官はとても気さくな若い方で、遺族側からの質問にも澱みなく答えてくれた。観光地ではないのだが、ユーモアを交えながらも英霊に対して失礼がないような返答はさすがとしか言いようがなかった。

私は事前に、もし現地滞在の自衛官の方と話す機会があるのなら聞いてみたい質問が一つだけあった。それは多くの硫黄島関連の書籍で書かれているように、幽霊の存在や心霊現象についてである。

結局それは聞けなかったし、そのことを思い出したのは帰りの飛行機の中だった。

ただ聞かなくて良かったのかもしれない。なぜならそれは愚問中の愚問、だと思えたからだ。

推測になってしまうけれど、現地に滞在する自衛官の方々は、不思議な経験をしていない人の方が少ないでは無いだろうか。

硫黄島に赴任される自衛官の方は、大体2年間勤務をされるようで、年に数回は島を離れることが許されるらしい。私たちを担当してくれた自衛官の方はこの件に対し、笑いながら「そうじゃないと持たないです・・・」と言った。その言葉がやはり全てだろう。

激戦であった場所、今も数千柱が土に埋まっている場所などを訪れるたびに僕は視線のようなものを感じた。また地面に凹凸がある場所を通過する時にも強くそれを感じることができた。一応普通を装ってはいたけれど、ゾクゾクする感覚はあまり馴染みのないものでとても恐ろしかった・・・。

余談にはなるけれど、僕はこの慰霊事業に一緒に参加した兄と翌日も会うことになった。

その際、実はこんな感覚がしてヤバかったんだ、という話をしたら兄も同じように感じていたことを知った。

そう、話を戻す。飛行機から全島を見渡すと、そんなに大きな島には見えない。上陸すると機上から見るよりかは大きな島であると実感できるのだが、アメリカ軍が当初5日で征服出来ると考えたのも理解できるような気がした。

それが約5週間も続いたのである。その5週間に日米両方の兵士が何を思い、戦ったのか、私には想像が出来ないし、また想像したところであまり意味がないと思える。

きっと日米両軍とも、その想像の何億倍も凄惨なものが心の中に渦巻いていただろうからだ。

実際、島中に張り巡らされていた坑道の一部にも入らせて貰ったが本当にサウナのようだった。またガスが噴出している場所が多く、汚染されていない安全に飲める水は雨水のみだったらしい。食料も限られていただろうから、それらの苦しみは筆舌に尽くしがたいものだったに違いない。

慰霊の最後に擂鉢山の頂上に立つことができた。

ここからは島全体を見渡すことが出来る。日米両方の記念碑が設けられている。ピューリッツァー賞を受賞した有名なあの星条旗を掲げた写真の場所に私は立っているのだ。

風はとても強く、空は青く海の深い蒼のグラデーションは美しかった。ただ眼下に広がる景色の全てが物悲しく感じられた。

先述の自衛官の方が、海を見ながらボソッと言った。

「ここから米軍の船がいくつも並んで、あの浜に上陸して行ったんですよね・・・それを見ていた日本軍の方々は、本当に怖かったと思います・・・」

にこやかな自衛官だったが、その時彼に笑顔はなかった。

それでタイムアップとなり、私たちは羽田に戻ることとなった。

機上では、いろんな思いが寄せてくるのだがとにかく目を閉じて何も考えないようにしていた。その後空港に到着し、同行者と食事をし、解散となった。

まっすぐ帰宅する予定だったが、なぜか東京タワーが見たくなってしまった。

もう一人の自分が言うことを聞かないので、仕方なくそうすることにした。

久々に芝公園に足を運んだ。

かつて私はここから数分ほどの場所に住んでおり、かつての勤務地の上には虎ノ門タワーがそびえ立っている。

コーヒーショップで買ったコーヒーを片手に、ぼんやり東京タワーを眺めていた。

ふとある想いが頭に浮かんできた。

それは、英霊たちが今の日本や私たちを見てどう思っているのだろう、というものだった。

彼らが自らの命をかけて守りたかった国や人に、私たちは成れているのだろうか・・・。

涙は出なかったけど、急に泣きたいような気分になってしまった。

祖父が私のすぐ側に立っているような気がした。

なんとなく酒が飲みたくなり、かつての行きつけだったバーへ向かった。

誰かがいる場所に行きたかった。だけど誰とも話をしたくなかった。

終電近くまでそこにいた。

無事に帰り着いたが、なんだか眠れなかった。

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あれから3日経過した。未だに消化しきれない気持ちが続いている。

ただ今日も私の心臓は動いている。生きている。なんだかそれがとてつもなく有難く思える。

東京タワーで浮かんだあの想いが再び頭に過る。

勝手なことは書くべきではないけれど、多分英霊の方々が私たちがただ生きているだけで、微笑んで下さっている気がする。私たちの政治家がどんなに汚れていて、私利私欲にまみれた人がこんなに多く日本に住んでいると知っても笑顔でいてくれる絵しか思い浮かばない。

私の脳みそは「そんな訳無いだろ、英霊が今の日本や日本人を見て心の底から呆れ果て、こんなもの達の為に俺たちの命を捧げたのかと思ってるに決まってるよ」と叫んでいる。

だけど頭に描かれるのは、軍服を着た若い兵士達が穏やかに笑っている姿である。

なんでだろう・・・。

彼らが紡ぎたかったもの、それが命だったからだろうか。

どんな形であれ、この国は今も存在していて平和は続いている。

それらがあるだけで、彼らの想いは昇華されるのだろうか・・・。

正解は良く分からないし、答えあわせもできないけれど自分があの世へ行くときには、それが分かるような予感がする。確信は持てないけれど。

僕の部屋の小さな神棚には、これが鎮座している。手に取ってみた。ホコリまみれだ・・・。

これはアメリカ出張の際、買ったものだ。スミソニアンで見たゼロ戦がきっと頭にあったからだろう。どこかの土産屋でこれを手に取ったのだ。当時は、祖父が硫黄島で眠っているとは知らなかった。

いい加減な気持ちで買ってしまったのだけれど、結果的に良かった。その後、祖父のことを知ってから、僕はこれを神棚に上げていたのだ。

ホコリを落として手に取った。そういえばこの星条旗を油性のマジックか何かで日の丸に描き換えようとしたこともあったな・・・それもしなくて良かったのかも知れない。

擂鉢山に残された、たくさんの米軍のドッグタグを愚弄するところだった。日本軍以上に、米軍の方々の魂はここに眠っておられるのだ。絶海の孤島で今も本土に戻ることが出来ない。その悲しみを思うとやはりふざけたことは許されるべきではない。

さて、これを書いたらちょっと海まで散歩しようと思う。

小さな逗子湾から、遠くの小笠原諸島南部、硫黄島まで海は繋がっている。水平線に向かってもう一度感謝の祈りを捧げてこよう。

そう、感謝といえば今回の事業に携わった厚生労働省の方々、そしてJALの方々には本当に頭が下がる思いである。

私の同行者(父)は色々とご迷惑をおかけしたのだが、両者の皆様にとても良くしていただいた。本当に感謝しかない。ありがとうございました。

個人的には役人と呼ばれる方には、敵意と悪意しか持っていなかったのだが、本当に彼らの仕事ぶりには頭が下がった。そしてCAの皆様にはプロの仕事というものを見せていただきました。きっとこれを目にすることは無いであろうが、心の底から感謝したい。

それと最後に自衛官の方々へも感謝を。自衛隊のおかげでこの国や世界の平和が保たれていることを再認識させていただきました。

蛇足ながら、表紙の写真は靖國神社境内にある歴戦地の石なのだが、硫黄島のものとなる。靖國へ手を合わせた後、この石を触って帰るのが私の参拝パターンである。

と今回も長々と私的な日記になってしまったが、読んでくださった方にも心からの感謝を。

良い週末をお過ごしくださいませ。

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