徒然日記

今更ながら「火垂るの墓」について考えた。

「火垂るの墓」が先日、Netflixで世界配信されたらしい。               最初に正直に書いておくと、僕は特にジブリ好きでもないし、そのことに大きな興味もなかった。ただそのニュースがYouTubeのオススメに上がってきたり、ネットメディアにもたくさん登場してきたから目で追うようになってしまった。

全く詳しくないことを語るのもどうかと思うけど、今日は少し火垂るの墓について書いてみたいと思う。                                  

「火垂るの墓」が放映されたのは、88年の春頃だったと記憶している。           なぜこれを覚えているかというと、僕が高3に上がりたての時に、当時付き合っていた彼女から、一緒に映画観に行かない?と誘われたことを覚えていたからだ。           それが「火垂るの墓」だったのだが、ただ彼女は「火垂るの墓」、とは言わず「となりのトトロ」を観に行こうと言った。                           昔は映画の同時上映というものが当たり前のようにあり、一枚のチケットで2本の映画が観れたのである。今考えても「となりのトトロ」と「火垂るの墓」は全く毛色の違う映画で、これを同時上映にしたスタジオジブリは、当時からとんでもない会社だったのだ。

数年後、火垂るの墓はテレビで上映されることになった。               結局、僕は「となりのトトロ」と「火垂るの墓」を劇場で観ることはなかったのだが、まぁいつでも観れるでしょ、くらいの気持ちでいたので、テレビの放映も見なかった。              それから8月、終戦記念日の前後を狙ってなのか、「火垂るの墓」はテレビ放映されていたように思う。ただ相変わらず僕は観なかった。                     しかし、テレビ放送の翌日、「火垂るの墓」の話題は必ず友達とのトピックに上がっていた。

「怖かった」「涙が止まらなくなった」「え、オマエまだ観てないの?」「1回は見た方がいいよ」大学生の日常会話だったのでその内容はとても軽かった。            ただ多くの友達が言う「1回は見た方がいい」というのが気になっていた。どういう意味なのか、本当のところを知りたかった。

ついにレンタルビデオ屋でそれを借りて、一人で「火垂るの墓」を観た。

感想は、一言「エグかった」というものになってしまう。観なければ良かった、とは不思議と思わなかった。でもただただ重い気持ちになったことを覚えている。        「1回は観た方がいいよ」と言った友達の気持ちがよく理解できた。実はあれから僕は1度も「火垂るの墓」を観てはいない。現状、最初で最後の鑑賞になっている。

だけど今回、再び「火垂るの墓」について思い出す機会があったので、あの時に感じた『ただただ重い気持ち』について考えてみた。画像の一つ一つを鮮明に覚えていると言ったら嘘になる。ただ、ストーリーはざっくり覚えている。                  そしてあの重い気持ちだけは、まだ僕の中にしっかりとこびり付いていることに気がついた。

あくまで個人の感想になるのだが、おそらく作品監督は反戦映画を作りたかったわけではないような印象は持っている。原作も読んでいないので、野坂昭如は何を伝えたかったのかも分からない。                                    ただ、普通に反戦映画を作りたかったのなら、せめて最後は美しいオチがあったり、やはり戦争は間違っている、みたいな感情が観終わった後にまずダイレクトに伝わるはずである。

でもこの映画はそうではない。映画監督の観客に対する最大のメッセージが「反戦」ではないと仮定するなら何なのか。

「ただただ重い気持ち」になるその正体を僕は考えてみた。

おそらく映画監督がこの映画で描きたかったのは、まず戦争を起こすと人はどうなるのか、という点だったのではないか。戦況の激しさによって、登場人物の言動が様変わりしていく姿を確か映画では描写していたのではないだろうか。

話は全く逸れるけど、『酒が人をダメにするのではなく、ダメな人を酒が暴き出す』という考え方がある。この酒を戦争に置き換えたらどうだろう。               もちろん、酒に罪はないことを前文では言い表しており、戦争には間違いなく罪はある。だから意味としては少し違ってくるけれど、ニュアンス的には当たらずも遠からず、ではなかろうか?なぜなら、映画ではアメリカやアメリカ兵を悪役に仕立てていないし、そもそも戦争が良いものだと思っている人なんて誰もいないからである。

人は、誰しも醜悪で、弱くて、汚い部分がある。時に美しさのカケラもない姿を露呈する。

それが自分の中にも存在しているということ、それを映画の中で突きつけられたから、「ただただ重い気持ち」に僕はなってしまったのではないか。               目を背けたかった「人間の本質」みたいなものを突かれた気分であるけど、実は無意識下でちゃんとそれを知っていた。                            だからこそ、見たくないものを見せつけられた気分になり、理由はよくわからないけど「ただただ重い気持ち」にさせられたのではないか、というのが僕の結論になった。

ものすごくゲスな例えをすると、道を歩いていてものすごくデカくて臭い、ウOコに遭遇してしまったようなものかもしれない。その時には顔をしかめ、目をウン0から逸らし、そして嫌な気持ちになるだろう。だけど自分もウOコはするのである。

そんなところだろうか。

まぁ30年ぶりくらいに、こんな不毛なテーマを考えられて、とにかく少しスッキリしたので個人的には良かった。                               もう一回くらい、「火垂るの墓」見てみようかな・・・書いていてそう思った。20歳くらいの時にあの映画を観たのだが、きみまろ風に言うと「あれから30年・・・」         おっさんになった自分があの映画を観てどう思うのか、それにも興味があるのだが、映画を観ることによって20歳の自分にちょっとだけ再会できるような・・・そんな楽しみ方もアリなのでは、とふと思った次第である。                         20歳の自分があの映画をどう感じていたのか、53歳の今の自分にはその記憶はあまりないけれど、映画が展開されていったら過去の記憶、20歳の時の思考が呼び覚まされるのは間違いないだろう。

また余談になってしまうけど、あの映画を見るとサクマ式ドロップスが異常に食べたくなる。そして購入してしまう。それはハッキリ覚えてるし、同じ行動をとった人も少なくないはずだ。なんだか普通の缶入りのアメがとてもありがたく、愛おしく思えるのだから不思議である。                                      サクマ式ドロップスって今いくらなんだろう?ってググってみたら、なんと廃業したらしい・・・いやでもコンビニで似たようなものを見た気が・・・と思ったらサクマ式ドロップスからサクマドロップスに名称が変わったらしい・・・ややこしい。「式」が抜けただけじゃん、と思ったが資本が変わっているのか・・・。まぁそこは彫り下げなくていいけど、追記しておきました。

皆様も良い週末をお過ごしください。ありがとうございました。