徒然日記

アントニオ猪木へのラブコール

僕はおっさんだ。そこそこ長く生きてきたから、もう大抵のことでは驚かなくなった。  初めて経験するようなことがどんどん減り、また初めての経験であっても、過去に類似したそれがあるので、なんとかやり過ごせる。ただ、どんなに年を取っても、慣れることができないだろうな、と思えることがたった一つだけある。

それが人の「死」である。

2年前の10月1日、僕のヒーローがこの世を去った。アントニオ猪木である。享年79歳。プロレスラーになることを一時真剣に考えたくらいのプロレス好きだった僕にとって、神に近い存在でもある。

僕はその日、出張で大阪にいた。仕事の合間にネットニュースを閲覧していたら、件の報道がされていた。                                   嘘だろ、信じられない・・・そんな気持ちだった。                  ただ、この報道は1社だけではなく、複数の報道機関が報じていた。どうやらフェイクニュースではなさそうだった。仕事を終えてホテルに戻り、TVをつけたが、やはり猪木死去というような報道がされていた。                              実感がないが、僕のヒーローがこの世にいないことは、真実のようだった。           実感がないから涙も出ない。実感がないから、悲しいという気持ちにもなれない。

心にぽっかり穴が空く、ってこう言う状態なんだな、とぼんやり思っていた。       その後も仕事はちゃんとしていたけれど、どうにも気持ちの整理がつかない。

とある人にも電話をかけたかったけど、葬儀や何かで忙しいだろうと思い、遠慮した。   そんな状態で、しばらく過ごしていた。

職場には同世代の猪木ファンがやっぱりいて、話をしたのだが、彼も同じような状態らしかった。親でも兄弟でもないのに、どうしてこんな気持ちになるのかな、みたいな話をした。

アントニオ猪木が亡くなって、関係者だった人は今、どんな気持ちなのだろう・・・。YouTubeで探してみた。古舘伊知郎や前田日明、その他の方々のコメントがあり、それらを見てみることにした。

古舘伊知郎のビデオは、とても素晴らしかった。

訃報のあった日の夜に収録されたであろうビデオなのだが、きっと何を喋るのかほぼ決めずに録画したのだろう。話している最中にいろんな思いが込められているのが分かった。そして自分の中で気持ちの整理をつけようと言葉を紡いでいるのだが、やはりそれがうまくできない印象を受けた。尺の関係か、一応は閉めたが、語りつくせない想いがそこにはあるような気がした。                                   ただ、そのビデオは古舘伊知郎から猪木への公開ラブレターであり、とても美しいものだった。

猪木の葬儀が終わり、2週間後くらいだっただろうか、僕はそろそろ連絡をしてみようと思い、電話をした。                                 相手はアントニオ猪木の実弟であり、僕のかつての上司でもあった猪木啓介氏(以下、社長とする)である。                                 社長には、この日まで連絡をしていなかった。なぜなら、この人は連絡をすると必ず、出てくれるからである。その時に電話に出れなくても、時間差で必ず連絡をくれる。だから変に気を使わせたくなったのだ。                            僕は今更ながらお悔やみを伝え、社長の状態や今後のことなど、幾つかの話をした。とにかく淡々と、大変だったことと、忙しかったことを教えてくれた。数日後に食事でもしよう、ということになり、共通の知人も加えて会うことになった。

僕は社長と仕事の関係でアントニオ猪木とも数回、仕事で会う幸運に恵まれた。

おそらくこの記事に使っている写真は、猪木と社長、そして僕の写真(顔は伏せます。美しくないもので。すみません)になっているだろう。今となっては懐かしい、ニューヨークで撮ったものだ。                                  (↑アントニオ猪木氏、猪木啓介氏、そして僕の3ショットを載せていたのですがオトナの事情により差し替えます。一応、アントニオ猪木氏の写真を使うことは、実弟の啓介氏に承諾を得ているので著作権・肖像権的には問題無く、自分のSNSでは使用しているのですが、こちらではちょっと変更しました、スミマセン)

先ほどから、アントニオ猪木、猪木と敬称もなく書いているが、普段は僕は会長、と呼んでいた。だから敬称なく書くことにちょっと引け目があるのだが、今日はただのファン目線で書きたいから敬称抜きで書こうと思う。

社長と会う前に、僕はとても図々しいお願いをメールすることになった。猪木が使用していた使い捨てのボールペンでも、100円ライター(猪木はタバコは吸わないが葉巻を時々吸っていた)でもいいので何かいただけませんか、と。社長は律儀にもそのお願いを聞いてくださることになった。幾つか提案してくださったが、選べない・・・。結局、携帯用のマッサージ機を用意していただけることになった。

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↑これがその写真である。自分の思い出のためにも残したいのでこのブログに掲載させてもらうが、いただいてから一度も中身を取り出したことがない。最期の方までこちらを使用していた、と伺ったがそれを聞いてなおさら触ることすらできなくなってしまった。    でもそれでいいのだ。これは一生僕のお守りとして残していくと思う。

それから、社長と久々に会い、お互いの近況を報告しあった。アントニオ猪木の話も含めていろんな話ができた。社長も冗談好きな人なので、やっぱりほとんどが笑い話になってしまい、とても楽しい時間を過ごせたと思う。それから現在も社長とは付き合いがあり、今もたまに会って仲良くさせてもらっている。

先日、鶴見の總持寺でアントニオ猪木の三回忌の法要が終わったのだが、僕もやっと最近になって自分のスーパーヒーローとの関係に折り合いがついたような気がしている。

アントニオ猪木は最期の最後まで、偉大だった。「燃える闘魂」そのままだった。やせ細った、あんな姿までファンにさらす必要はなかった。でもそうしたのは求められたからで、猪木の生き様をファンのために届けたいというサービス精神と優しさによるものだったと思う。そうして僕らが見たのは、彼の死に様ではなく、生き様だったのだ。

アントニオ猪木のおかげで僕の人生には、彩りが加えられたし、もし猪木がいなければ幾分退屈な10代、20代であったと思う。そのくらいの存在だった。            同じ時代を生きることができて、本当に良かった。

でも猪木寛至がアントニオ猪木になって、その姿を貫くためにどれだけ大変で孤独だったのか・・・                                     一ファンとしては、想像するしかできないが、きっとその数万倍くらい、困難な仕事であったことだろう。

僕にはアントニオ猪木との思い出の他に、会長としての立場の彼とも思い出もある。それはプロレス会場や上野毛の道場に通うほど猛烈な猪木信者だった僕に、神様が与えてくれたプレゼントのようなものだったと思う。猪木に会えたのは、プロレスラーや政治家を引退した後だったのだが、会えると分かった日には、毎回とても緊張したのを覚えている。    残念ながら僕はただの一般人なので、そこで話した内容等をここには書けないけれど、それらが自分の人生において大きな影響を及ぼしたこと、改めて自覚している。

ちょっと前のブログに僕は「若さとは、バOさ」だと書いた。誰の意見も参考にせず、自分で若さとは何かを定義できた、みたいなことを記したと思う。それは本当のことで嘘ではない。                                       でも今になって思うと、僕はアントニオ猪木に影響を受けていたのかもしれない。

いや、完璧に受けていた。                             さっき、久々に先述した古舘伊知郎のビデオを見返してみて、そこで確信した。     猪木の「バO」という言葉の意味を僕は勝手に、無意識下に受け継いでいた。小学生の頃から猪木信者だった僕は、長い時間をかけてそれを学び、そして会長という立場の彼からもそれを学んでいたのだ。                                古舘伊知郎のビデオから、それに気づかせてもらった。

ノムさんこと野村克也の言葉で「金を残すは三流、仕事を残すは二流、人を残すは一流」というものがある。

アントニオ猪木はまさしくそうであった。プロレスラー、国会議員としての猪木しか知らないファンでも、彼がどれだけの人材を世に残したか、ご存知かと思う。

でも誰もアントニオ猪木になれなかったし、誰も彼を超えられなかった。          

アントニオ猪木は大谷翔平のように、学校の教科書に載るようなことはないと思う。だけど、教科書に載っているどんな偉人よりも多くの人に、多くのものを残したのは確かなのではないだろうか。

アントニオ猪木を超えることは絶対にできないけれど、彼の持っていた「闘魂」や「バO」さのカケラ分でも持ちたいな、と思う。それがファンとして、せめてもの恩返しになると思っている。

かつてアントニオ猪木の姿に夢を重ねた方、ぜひ10月1日は空に向かって手を合わせてみてください。心の中に「元気ですかー」という声が響いてくると思います。

ありがとうございました。

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