マジメに考察

霞を食う、って何だ??

僕は無職のおっさんです。自らのことを、小出しに書いておりますが、僕は元二流のアスリートで、現在高齢者向けの競技会(マスターズ大会)に向けてこっそり日々の練習を重ねています。

毎日の練習の中で、体のあちこちが痛くなったり、やる気がどうにも起きない時などもあるのですが、充実感を得られる瞬間もたまにはあって、悲喜交々な日々を送っています。

僕が出場しようとしている種目は、陸上競技の走り高跳びです。

陸上を知ってる人はご存知かも知れませんが、陸上選手の中で走り高跳びの選手は、最も痩せています。それは当たり前の理屈ですが、上に跳ぶ競技なので、体重は出来るだけ軽い方が有利なのです。スポーツ選手にとって筋肉量が多いのは喜ばしいことではあるのですが、筋肉は重たいので僕の種目ではそれが不利になることもありえます。

見た目がヒョロガリで一般の方と変わらないので、特に走り高跳びの選手はナメられがちです。ただ優秀な選手の筋力は見た目以上だと言えます。

ちょっとマニアックな話をすると、大谷翔平選手のデッドリフトのマックスは260kg だと聞いたことがあります。走り高跳びの選手でそこまでの重量をリフトするのを正直見たことはありませんが、200ー230kgくらいを挙げる選手は多く見てきました。

大谷選手は体重が100kg以上あると思います。日本人の走り高跳びの選手は身長にもよりますが、せいぜい65kgくらいから70kg前後の選手がほとんどです。

自分の最大出力(Max)を体重で割った場合、その人の1kgあたりの筋力が表されますが、その値だけで評価すると、意外なことにヒョロガリな高跳び選手が大谷選手の数値を大きく上回っていることになります。

でもこれにはちゃんと理由があって、走り高跳びの踏み切り時には瞬間的に体重の10倍ほどの衝撃が加わります。70kgの選手であれば、700kgの負荷が一瞬だけかかります。

高いボックスから飛び降りたり、様々なジャンプを繰り返しているからこそ脚や体幹周りの筋力は、ヒョロガリな見た目以上となるのです。

もちろん、こういうものは、あくまでも評価数値でしかないのですが、ちょっとだけハイジャンパーの名誉のために、ただのヒョロガリではないぞ!と書いてみたくなった次第です。

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とまぁ現役選手のような気分で書いてしまいましたが、残念ながら今の僕は選手だった当時とは比較にならないほどの筋力しかないと思われます。筋肉量も然りです。

現役時代に一番近づけそうな部分は皮下脂肪、体内脂肪率しかないので、せめて体重くらいは、現役時よりも軽くしようと思っています。

僕は幸運なことに代謝が良い方なので、食べても皮下脂肪、体内脂肪率はそこまで上昇しません。ただ今は無理やり体重増加を抑えているので、ちょっと食べ過ぎてしまうと、脂肪量は増えませんが筋肉量はすぐに増えてしまいます。1−2kg内の話ではあるのですが、個人的には今2kg体重が増えれば、かなり練習内容を変更しなくてはならなくなります。他競技にはなりますが、ボクシングの階級間の体重差が2kg未満のクラスが多く存在しています。特に軽量級ほど体重差は少なくなっています。様々なスポーツでも1−2kgの体重差によって生じるパフォーマンスの違いは大きいため、たかが1kgとはならないのです。

残念ながら、50代の体では筋肉量の増加が筋出力向上に直結するとも言えません。特に前(幅跳び)ではなく上に跳ぶ場合は、重力とうまく付き合わないといけません。      体重が増加したら怪我のリスクも高まります。先述しましたが、ジャンプする時の衝撃を考えると、体重は少なければ少ないほど良いのです。

ただ僕の一番の趣味は食べることであり、ジジイのくせに食事の量だけは現役時と大差ないという問題を抱えています。とにかく食事をしている時、その後の数時間以外は小腹が空いて大変でした。

例年より現時点で5kgほど軽く、シーズンが始まったらあと2−3kgは落とさないといけません。シーズン中の2−3kgの減量は難なくできますが、この時期にこれ以上体重を増やせない、というのは現役時にも経験したことがない未知の部分です。   

ここでやっと話はタイトルに繋がります。

これ以上体重は増やせません。今後、どうしたら空腹を克服できるのか、ちょっと真面目に考えてみました。

その時になんとなく頭に浮かんだのが、「霞を食う」という言葉でした。

そもそも霞なんて食い物じゃないし、空気中に漂ってるモヤみたいなものだろ、なんでそんな言葉が浮かんできたんだ・・・と自問します。

なんも食わずにモヤみたいなのを食って(吸って)お腹いっぱいになったら、体重管理も楽勝なのにな、と思ったところから頭に浮かんだと思われます。

【霞を食う】にはなんとなく「仙人」という言葉とセットな気がしますが、本当の意味はどうなのでしょうか・・・。なんとなくではありますが、悟りを開いた仙人は、ちゃんとした食事を摂らずとも、悠々と生きていける・・・ようなイメージがあります。要は達人レベルに悟りを開けば、霞ですら生きるエネルギーに変換できる、みたいな感じです。

言葉を自分なりに解釈したい時は、僕はなるべく辞書に頼らないようにしたいのですが、「霞を食う」に関しては、僕のイメージが正しいという確信が持てません。

なのでここは辞書を頼ることにしてみました。

辞書によると【仙人などが超人間的な力を得て存在することの例え。浮世離れした人の生活の例え。】だろうです。

まぁ前者に関しては、僕のイメージに近い意味があります。ただ後者に関してはなんだかピンときません・・・。仕方ないのでGoogle先生にもお伺いを立ててみました。

【浮世離れして収入もない暮らしをしていることを例えた表現。または仙人などが超人間的な力を得て存在することを例えた表現】とありました。

辞書とGoogle先生の違いは、2つの意味を持つ前者と後者の順位が入れ替わっていることと、「浮世離れした人」が無収入であることを明確に記してあることでした。

浮世離れした人とは、常識にとらわれず、自分のモノサシを持ち、他者と違った生き方を選ぶ者というイメージがあります。それに加えて無収入。

となるとそれって・・・「オレだ!!」となりました。

急に【霞を食う】という言葉に親近感が湧いてきました。僕は現状、無職なので収入もないのですが幸運なことにまだ小銭が残っていますし、日々なんとか食べることができています。でも世間から見たら浮世離れしているし、社会のお荷物!!と言う代わりに昔の人は【霞を食う】などと粋な言い方をしたのかもしれないな、と感じました。まぁ皮肉ではあるのかもしれませんが、面白いとは思えます。

ただもう一つの意味である『仙人などが超人間的な力を得て・・・』の部分が気になります。人にどう見られているかの表現よりも、こちらの方がずっと大事です。       どうやって超人間的な力って得られるんだ・・・そもそも超人間的な力って何なのよ・・・。

ちょっと自分が仙人になった姿を想像してみました。山奥の洞窟のような場所で、緑を眼下にしたがえて、瞑想しているような映像が見えました。

超人間的な力って、つまりは悟りなんじゃないか・・・。

そもそも悟りって、何をどうやって悟るんだ・・・。

原点に戻るんだ、霞を食ったらなんか分かるんじゃねぇの???

霞を食うってどうやって食えばいいんだ・・・箸でも掴めないじゃん・・・

霞なんて気体だから、食うというより「吸う」なんじゃねぇか・・・

もしオレのイメージ通りなら・・・それって座禅してたら、普通に霞を吸い込めるんじゃね・・・

なんか座禅やってみるか・・・仙人とか達人は座禅してそうだし。

と話は長くなりましたが、僕はこんなひとり問答の後、すぐに実行に移しました。それから約3ヶ月くらい座禅のようなことをしています。

座禅のような、と書いたのは僕がやっているのは座禅ではなく、黙想と呼ばれるものだからです。

単純に僕は体のバランスが悪いので、あぐらをかくのが苦手なことに気づきました。

でも武道の嗜みが少しあったので、練習の前後に行う正座での黙想の方に馴染みがあります。正座は痺れて辛いもの、という記憶もあったのですが、ストレッチマットの上で行うと全く痺れがきません。

ともかく僕は今日まで約3ヶ月、愚直にそれを続けてきました。

結論、僕は未だ悟れておりません。達人や仙人になるには、後どれだけの時間が必要なのか、それも分かりません。

だけど、悟り云々は最早どうでもよくなりました。また空腹を克服する為に出会ったような「霞を食う」という言葉でしたが、黙想を続けることでほんの一ミリくらいですが、言葉の真意に触れることが出来たような気がします。

座禅も黙想もヨガも、共通しているのは呼吸です。厳密には腹式呼吸、丹田呼吸、禅呼吸・・・などなどあるそうですが、とにかく鼻から吸って口から出す、それを僕は繰り返してきました。

最初はあぐらをかいての座禅だったので、雑念がチラチラ浮かんでばかりでただの深呼吸でしかありませんでした。でも正座に変更して黙想に切り替えたら、雑念がピタッと止まりました。姿勢云々も正確にはあると思うのですが、脱力し呼吸を繰り返していくと勝手に背筋がビシッとキマリます。

そして何よりも素晴らしいのは、無の感覚が得られることです。

僕の語彙力では上手く伝えられないのですが、呼吸を繰り返すことで無を感じ、心の平穏、平和のようなものを得ることが出来ます。その後、全てが満たされたような感覚、そして多幸感を感じることが出来ます。

また自分が天と繋がって大気に包まれるような、そんな感覚も得られます。

こうやって読んでみると、なんだかインチキな宗教の宣伝文句のような駄文になってしまいますが、とにかく気持ち良いので「続けよう」ではなく「続けたい」になったのです。

僕が一ミリくらい「霞を食う」の真意に触れられたかも、と思えたのは黙想を続けることで心の平穏、平和を感じられる、感じられたからです。もう少し書き加えられる感覚もあるのですが、僕が分かっていれば済むことなので、これ以上は割愛します。

ただ、続けることで何か素晴らしいことがありそうだ、というのは感じます。それが具体的にはどういうものか、想像できませんが素晴らしいものが存在していることだけは確実に感じ取れています。自分でも驚きなのですが、タヒぬまでのライフワークにしようと思っています。

まぁ胡散臭いと思われるかも知れませんし、ここまで読んでくださった方にオススメしようとも思いません。ただ僕は自分の身に起きた日常を日記のような形で残したいだけなのです。

これもブログを始めたおかげで、偶然得られたことなのでやっていて良かったなと思います。

幸いにも隣が鎌倉市で禅寺はたくさんあるので、禅のやり方、呼吸法や歴史などについてもきっちり習ってみたくなりました。禅の経験はあるのですが、仲間といったために当時フザけてしまい、貴重な経験を無駄にしてしまいました。座禅者の雑念を和尚さんが感じたら、肩を叩かれる、というものでしたがゲームのような感覚で臨んでおり、目を開けてキョロキョロするということをしてしまいました。                      ただ、今度は一人で行って何かを得られたら、過去の無駄が無駄ではない今日へと昇華できるかも、という思いでいます。

それまでは自己流の黙想を続けてみようと思います。

最後にまたもや蛇足ですが、もともと空腹の克服から始まった記事なので、それについて書きたいと思います。空腹を克服出来たとは言えませんが、堪えることはもう数ヶ月間、出来ています。

一番辛いのは就寝時の空腹感なのですが、黙想を数分間すれば理由は分かりませんが、空腹感が消えることが分かりました。完全に消えなくても、強い空腹感を感じることは100%なくなります。黙想すれば寝付きも良くなるので、空腹の有無に関わらず、最近では寝る前には行うことがほとんどです。

また僕が黙想をする部屋は、かなり寒いはずなのですが、黙想を始めると全く寒さを感じることはありません。

正直、いちいち色々なことが不思議なのですが、なんとなく黙想に関しては余計なことを考えるとダメな気がするので、何も深掘らないように努めています。

今回は【霞を食う】という言葉からのダラダラブログになりましたが、また違った言葉に出会うのが楽しみです。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

良い週末をお過ごしくださいませ。

応援・ファンレターをお待ちしております!ありがとうございます

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